「ぷはっ……」ようやく唇が離れたかと思えば、私を見下ろす杏介さんと目が合う。「紗良は本当に可愛い」「ど、どこがっ……さっきも可愛くない声が出ちゃったのに……」「うん? じゅうぶん可愛かったけど、もしかしてもっと可愛い声を聞かせてくれるの?」そう言われて一気に想像が膨らんだ私は、声にならない声を出して固まる。「き、き、き、杏介さんのエッチ!」「まだキスしかしてないのに、何か想像しちゃってる紗良の方がエッチだろ?」と杏介さんはクスクスと笑う。た、確かにそうかも――。って納得してる場合ではなかった。 どうしよう、どうしよう。「紗良、俺も緊張してるよ」「……うそ?」「ほんと」杏介さんは私の手を取り、自分の心臓へ持っていく。 トクントクンと刻む鼓動は確かに速い……気がする。 目をぱちくりさせると、杏介さんは柔らかく笑う。「ずっと紗良を抱きたいって思ってたんだから、夢だったらどうしようって思ってる。だからすごく緊張してる」「あ……わ、わたしも……夢みたいで……。それに、もっと可愛い下着付けてこればよかったとか、杏介さんをガッカリさせちゃったらどうしようとか、思っちゃって……」「はあー、紗良。ほんと、これ以上可愛いこと言うのやめて。俺の理性が吹き飛ぶ」「……吹き飛ぶ?」「そう、吹き飛ぶ」「んっ!」チュッと音を立てて食べられた唇。 優しくなぞられる体。どうしようなんて散々考えていたのは杞憂で、それでいて滑稽なことだったと、この後たっぷりと実感したのだった。
◇海斗のプール教室は、いつも弓香さんと一緒に観覧席から見守っている。 全面ガラス張りなのでほとんどすべてが見渡せ、海斗のみならず別のクラスを担当している杏介さんの姿もしっかりと確認できる。「うちも海ちゃんと一緒に同じクラスに上がれてよかったわ」「一緒だとやる気も上がるしいいよね」「でも先生が代わっちゃったのがちょっとなー。どうせなら小野先生がよかったわ」「弓香さん、小野先生推しだもんね」私は杏介さん推しだけど、なんて心の中で唱える。 チラリと視線を海斗から杏介さんに向ければ、逞しい体が目に入った。……急に思い出してしまう。あの日のことを。あの逞しい体に、抱かれたんだよね。 すごくかっこよくて、何度もキスをしてくれて、何度も紗良って名前を呼んでくれて、幸せで胸が張り裂けそうになった。初めてはすっごく痛かったけど、でもそれ以上に、杏介さんとひとつになれたことが嬉しくてたまらなかった。私、こんなにも杏介さんのことを好きで愛していたんだって改めて実感した。「おーい、紗良ちゃん? 紗良ちゃーん」「は、はいっ!」「どした? 推しでも見つけた?」「いや、なんでもないよっ」あまりにも杏介さんのことを見ていたからだろう、弓香さんが不思議そうに首をかしげる。前はプール教室の先生なんて全員同じ顔に見えていたし、推しだなんて考えたこともなかった。 だけど今はもう、全員違う顔に見える。当たり前だけど、杏介さんが一番かっこいい。もうちょっとしたら、弓香さんにもちゃんと報告しよう。 杏介さんと結婚しますって。 そしたら何て言うだろう? 驚くかな?その時のことを考えて、私はまたドキドキと心を揺らした。 【END】
微睡みのなか目を開けると、一番に目に飛び込んできた顔に、紗良は一気に目が覚めた。「きっ……」杏介さんと叫びそうになって慌てて口を閉じる。目覚まし時計のアラームはまだ鳴っていない。まだほの暗く静かな部屋の中。杏介と、反対側にいる海斗の規則的な寝息だけがすーすーと聞こえてくる。イルカのぬいぐるみを抱いた紗良は、なぜか杏介に包まれるようにして寝ていたようで、しばし思考が止まる。(……なんで?)というのも、海斗を真ん中に三人で川の字になって寝たはずである。それなのにどういうわけか海斗は紗良の背中側におり(しかも寝相が悪すぎて布団からはみ出ている)、紗良は杏介にぴっとりとくっついている状態。紗良の腰には杏介の腕が巻きついている。要するに、イルカのぬいぐるみを抱いている紗良を杏介が抱いている、という形になるわけだが。(……抱きしめられてる)それを理解した瞬間、紗良の心臓はバックンバックンと騒ぎ出した。結婚して四ヶ月ほど経つというのに、隣に杏介が寝ているというだけでドキドキとしてしまう。間近に見る杏介の寝顔は、男性なのに綺麗で可愛いと感じる。長い睫毛や通った鼻筋、形の良い唇。そのどれもが愛おしく感じて胸が騒ぐ。
触れたい――。そう思うのに、いつも自分からは触れられない。 杏介がきてくれるから応えるだけ。 それはそれで嬉しくてたまらないのだけど。 やっぱり自分からも積極的に……と思いつつ結局勇気が出ないまま流れに身を任せている状態。もう恋人じゃない、夫婦なのだから、何となく今までとは違う付き合いになるのではなんて思っていたけれど、まだまだ恋人気分が抜けないでいる。そもそも、恋人期間があったのかどうなのか、微妙なところではあるけれど。紗良はそっと手を伸ばす。 杏介の髪に触れるとさらっと前髪が流れた。少しだけ体を起こして杏介に近づく。 吐息が感じられる距離に心臓をバクバクさせながら、ほんのちょっとだけ唇にキスを落とす。ん……と杏介が身じろいだ気がして紗良は慌てて身を隠した。杏介が目を開けると、目の前にはイルカのぬいぐるみ。いつも紗良が抱きしめて寝ているあれだ。 そのイルカのぬいぐるみに身を隠すようにして紗良が丸まっている。この寝相は新しいなと思いつつ紗良の頭を撫でると、紗良はビクッと体を揺らした。 完全に起きていることがバレるくらいの動じ方だ。「……紗良、起きてるの?」「……起きてません」なぜそこで否定を……と思いつつ、目を覚ます前に感じた唇の感触を思い出して杏介は寝ぼけて回らない頭を無理やり動かした。(あれは夢じゃなくて、もしかしてキスだった?)
そう思うと、もう、そうとしか思えなくなる。この紗良の異常な行動は照れているからだろうか。だとしたら嬉しすぎてたまらないと杏介の胸は逸る。杏介はイルカのぬいぐるみをそっと抜き取る。と、「あっ」と紗良は声を上げてイルカの行方を追いつつ、杏介とバッチリと目が合った。「おはよう紗良」「……おはよう」それはもうごまかしようのない状況に、紗良は観念してぎこちなく挨拶を返す。杏介にじっと見つめられて、紗良は不自然に目をそらした。「ねえ、さっきのもう一回して」「さ、さ、さ、さっきのって?」「キスしてくれたよね?」「……お、起きてたの?」「んー? それで起きた。夢うつつだったからちゃんとしてほしいなーって」「……」「照れてる紗良も可愛い。毎日紗良のキスで起きたい。一日頑張れそうな気がする」「わっ」ぐいっと腰を引き寄せられて、ひときわ杏介と密着する。こんなこと初めてじゃないのに、いつもちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい。杏介の胸に耳を当てれば、トクトクと心臓の音が聞こえる。とても安心する音に紗良は目を閉じた。と、突然体がぐいんと回る感覚に紗良は「わわっ」と声を上げる。横向きで寝ていたのに仰向きにされ、上から杏介が覆い被さってきたのだ。
「き、杏介さんっ。ちょっと……」杏介の甘い視線に気づき、紗良はこの先のことを想像して、焦って左側にいる海斗を確認する。 相変わらず大爆睡の海斗は起きる気配がない。 杏介もそれは気にしたようで視線をチラリと動かすが、すぐに紗良に戻ってくる。「ちょっとだけ」「んっ……」頬に手を添えながら濃密なキスを落とす。 寝ぼけ眼には刺激的なその行為に、一気に目が覚めるような、それでいてまだ眠りの淵にいたいような微睡んだ感覚に溺れそうになった。もう仕事なんて放棄して、このまま二人で過ごしたい。 一日中布団の中でくっついていたい。そんな風に思考が持っていかれたときだ。ピピピッピピピッ枕元に置いていた目覚まし時計が鳴り出し、ハッと我に返る。 杏介を押しのけて目覚まし時計に手を伸ばせば、不満顔の杏介と目が合った。「……だって、起きる時間だもん」紗良は時計の針が見えるように杏介に示す。 杏介と結婚してから、紗良の起きる時間は少しだけ遅くなった。 五時半に起きていたのを六時に変えたのだ。 出勤時間の遅い杏介が、海斗の送り出しや洗濯干しを担ってくれたからだ。「不完全燃焼……」ポツリと呟く杏介に、紗良は困ったように眉を下げる。 紗良とて、起きなくてもいいならこのまま寝ていたい。 杏介といつまでもくっついていたい。
紗良はぐっと体を起こし、先ほどとは反対に杏介を布団に押しつける。 突然のことに驚いた杏介は目を丸くしたが、その後更に驚いた。杏介を見下ろした紗良は片方の髪を耳にかけ、杏介の上に降ってきたのだ。柔らかくあたたかい感触の唇が押しつけられ、杏介の心臓が思わずドキンと跳ねた。 ほんの一瞬だったように思う。「……続きは夜ね」紗良は恥ずかしくなって、バタバタと寝室を出て行く。 小さく呟かれた声はしっかりと杏介の耳に届いて、頭の中で反芻する。 妻のあまりの可愛さに、杏介は布団の中で一人身悶えすることになったのだった。こんな夫婦のイチャイチャなやりとりがされているなか、隣で寝ている海斗はまったく起きない。 まるで空気を読んでいるかのようでありがたいことだ。「……そろそろ海斗、一人で寝てくれないかな」もう小学一年生。 海斗もいずれは一人で寝ることになるだろう。 そうしたら存分に紗良を堪能できるのに……などとやましいことを考えつつ、まだまだ可愛くて手のかかる海斗を起こしにかかった。キッチンからはパンの焼ける良いにおいが漂ってくる。 紗良が朝食の準備を始めたのだ。「海斗~いいかげん起きろ~」何度揺すっても起きない海斗の布団をはぐ。 「まだねる~」とむにゃむにゃ呟く海斗を引きずるように起こし、自分も準備に取りかかる。こんな何気ない日常がなんて幸せなことだろうと、杏介は知らず微笑んだ。 【END】
家族になって数ヶ月、いつからだろうか、杏介の帰りが早い日は海斗と一緒にお風呂に入ることが習慣になっていた。男同士、くだらない話題で盛り上がりついつい長湯をしてしまう。「はー、さっぱりするー」海斗が湯船につかって「ごくらくごくらく」と呟く。「極楽って、どこで覚えたんだ? 意味知ってるのか?」「えー? なんかね、リクが言ってたからさ~。ごくらくって良いことって意味でしょ?」「うーん、ちょっと違うけど。あながち間違いではないな」「えー? そうなのー? うーん」海斗は小学一年生。新しい友達も増え、良い言葉も悪い言葉もたくさん覚えてくるようになった。微笑ましく感じることもあれば、きちんと正してやらなくてはいけないこともある。子育てはなかなか難しい。「ところで海斗、相談があるんだけど」「うん、なになにー?」「あのな――」杏介は少し声をひそめる。うんうんと真剣に耳を傾け、海斗は男同士の秘密ごとにはっと口元を押さえた。「先生、それめっちゃいい!」「だろ?」杏介と海斗はグッと親指を立てる。海斗は未だ杏介のことを『先生』と呼ぶ。本当は『お父さん』と呼んでほしいところだが、無理強いをするつもりはない。海斗の気持ちを大事にしたいからだ。
「おーい、二人ともー、いつまで入ってるの?」バスルームの扉がノックされ、紗良のシルエットが映った。 海斗と内緒話をしていたら、ずいぶんと長湯をしてしまったらしい。「今出るとこー」「でるでるー!」ザバッと勢いよく湯船を飛び出す海斗を、杏介は慌てて呼び止める。「海斗、わかってるよな?」「もちろん! 俺にまかせてよ!」二人目配せをしてからようやく湯船から上がった。 全然体を拭けていないまま裸でリビングへ走って行く海斗を見て、杏介は少々不安になる。 と、やはり「早く着替えなさい」と紗良の咎める声が響いてきて、今日も我が家は平和だなと思った。「もー、杏介さんも叱ってよ」「ん? ごめんごめん。海斗~そんなことじゃ海斗のお願い事はきけないぞ」「あー、ごめんなさーい。今着替えてるからちょっと待って」「……お願いごと?」紗良は首を傾げる。 何か欲しいものでもあるのだろうか? 誕生日はまだ先だし、クリスマスもまだまだ先のこと。 学校でなにか情報でも仕入れてきたのだろうか。それならあり得るかもしれない。「紗良姉ちゃん」海斗は紗良のことも相変わらず『紗良姉ちゃん』と呼ぶ。慣れ親しんだ名を変えることは容易ではない。紗良もわかっているから深くは追求しない。
家族になって数ヶ月、いつからだろうか、杏介の帰りが早い日は海斗と一緒にお風呂に入ることが習慣になっていた。男同士、くだらない話題で盛り上がりついつい長湯をしてしまう。「はー、さっぱりするー」海斗が湯船につかって「ごくらくごくらく」と呟く。「極楽って、どこで覚えたんだ? 意味知ってるのか?」「えー? なんかね、リクが言ってたからさ~。ごくらくって良いことって意味でしょ?」「うーん、ちょっと違うけど。あながち間違いではないな」「えー? そうなのー? うーん」海斗は小学一年生。新しい友達も増え、良い言葉も悪い言葉もたくさん覚えてくるようになった。微笑ましく感じることもあれば、きちんと正してやらなくてはいけないこともある。子育てはなかなか難しい。「ところで海斗、相談があるんだけど」「うん、なになにー?」「あのな――」杏介は少し声をひそめる。うんうんと真剣に耳を傾け、海斗は男同士の秘密ごとにはっと口元を押さえた。「先生、それめっちゃいい!」「だろ?」杏介と海斗はグッと親指を立てる。海斗は未だ杏介のことを『先生』と呼ぶ。本当は『お父さん』と呼んでほしいところだが、無理強いをするつもりはない。海斗の気持ちを大事にしたいからだ。
紗良はぐっと体を起こし、先ほどとは反対に杏介を布団に押しつける。 突然のことに驚いた杏介は目を丸くしたが、その後更に驚いた。杏介を見下ろした紗良は片方の髪を耳にかけ、杏介の上に降ってきたのだ。柔らかくあたたかい感触の唇が押しつけられ、杏介の心臓が思わずドキンと跳ねた。 ほんの一瞬だったように思う。「……続きは夜ね」紗良は恥ずかしくなって、バタバタと寝室を出て行く。 小さく呟かれた声はしっかりと杏介の耳に届いて、頭の中で反芻する。 妻のあまりの可愛さに、杏介は布団の中で一人身悶えすることになったのだった。こんな夫婦のイチャイチャなやりとりがされているなか、隣で寝ている海斗はまったく起きない。 まるで空気を読んでいるかのようでありがたいことだ。「……そろそろ海斗、一人で寝てくれないかな」もう小学一年生。 海斗もいずれは一人で寝ることになるだろう。 そうしたら存分に紗良を堪能できるのに……などとやましいことを考えつつ、まだまだ可愛くて手のかかる海斗を起こしにかかった。キッチンからはパンの焼ける良いにおいが漂ってくる。 紗良が朝食の準備を始めたのだ。「海斗~いいかげん起きろ~」何度揺すっても起きない海斗の布団をはぐ。 「まだねる~」とむにゃむにゃ呟く海斗を引きずるように起こし、自分も準備に取りかかる。こんな何気ない日常がなんて幸せなことだろうと、杏介は知らず微笑んだ。 【END】
「き、杏介さんっ。ちょっと……」杏介の甘い視線に気づき、紗良はこの先のことを想像して、焦って左側にいる海斗を確認する。 相変わらず大爆睡の海斗は起きる気配がない。 杏介もそれは気にしたようで視線をチラリと動かすが、すぐに紗良に戻ってくる。「ちょっとだけ」「んっ……」頬に手を添えながら濃密なキスを落とす。 寝ぼけ眼には刺激的なその行為に、一気に目が覚めるような、それでいてまだ眠りの淵にいたいような微睡んだ感覚に溺れそうになった。もう仕事なんて放棄して、このまま二人で過ごしたい。 一日中布団の中でくっついていたい。そんな風に思考が持っていかれたときだ。ピピピッピピピッ枕元に置いていた目覚まし時計が鳴り出し、ハッと我に返る。 杏介を押しのけて目覚まし時計に手を伸ばせば、不満顔の杏介と目が合った。「……だって、起きる時間だもん」紗良は時計の針が見えるように杏介に示す。 杏介と結婚してから、紗良の起きる時間は少しだけ遅くなった。 五時半に起きていたのを六時に変えたのだ。 出勤時間の遅い杏介が、海斗の送り出しや洗濯干しを担ってくれたからだ。「不完全燃焼……」ポツリと呟く杏介に、紗良は困ったように眉を下げる。 紗良とて、起きなくてもいいならこのまま寝ていたい。 杏介といつまでもくっついていたい。
そう思うと、もう、そうとしか思えなくなる。この紗良の異常な行動は照れているからだろうか。だとしたら嬉しすぎてたまらないと杏介の胸は逸る。杏介はイルカのぬいぐるみをそっと抜き取る。と、「あっ」と紗良は声を上げてイルカの行方を追いつつ、杏介とバッチリと目が合った。「おはよう紗良」「……おはよう」それはもうごまかしようのない状況に、紗良は観念してぎこちなく挨拶を返す。杏介にじっと見つめられて、紗良は不自然に目をそらした。「ねえ、さっきのもう一回して」「さ、さ、さ、さっきのって?」「キスしてくれたよね?」「……お、起きてたの?」「んー? それで起きた。夢うつつだったからちゃんとしてほしいなーって」「……」「照れてる紗良も可愛い。毎日紗良のキスで起きたい。一日頑張れそうな気がする」「わっ」ぐいっと腰を引き寄せられて、ひときわ杏介と密着する。こんなこと初めてじゃないのに、いつもちょっと恥ずかしくて、でも嬉しい。杏介の胸に耳を当てれば、トクトクと心臓の音が聞こえる。とても安心する音に紗良は目を閉じた。と、突然体がぐいんと回る感覚に紗良は「わわっ」と声を上げる。横向きで寝ていたのに仰向きにされ、上から杏介が覆い被さってきたのだ。
触れたい――。そう思うのに、いつも自分からは触れられない。 杏介がきてくれるから応えるだけ。 それはそれで嬉しくてたまらないのだけど。 やっぱり自分からも積極的に……と思いつつ結局勇気が出ないまま流れに身を任せている状態。もう恋人じゃない、夫婦なのだから、何となく今までとは違う付き合いになるのではなんて思っていたけれど、まだまだ恋人気分が抜けないでいる。そもそも、恋人期間があったのかどうなのか、微妙なところではあるけれど。紗良はそっと手を伸ばす。 杏介の髪に触れるとさらっと前髪が流れた。少しだけ体を起こして杏介に近づく。 吐息が感じられる距離に心臓をバクバクさせながら、ほんのちょっとだけ唇にキスを落とす。ん……と杏介が身じろいだ気がして紗良は慌てて身を隠した。杏介が目を開けると、目の前にはイルカのぬいぐるみ。いつも紗良が抱きしめて寝ているあれだ。 そのイルカのぬいぐるみに身を隠すようにして紗良が丸まっている。この寝相は新しいなと思いつつ紗良の頭を撫でると、紗良はビクッと体を揺らした。 完全に起きていることがバレるくらいの動じ方だ。「……紗良、起きてるの?」「……起きてません」なぜそこで否定を……と思いつつ、目を覚ます前に感じた唇の感触を思い出して杏介は寝ぼけて回らない頭を無理やり動かした。(あれは夢じゃなくて、もしかしてキスだった?)
微睡みのなか目を開けると、一番に目に飛び込んできた顔に、紗良は一気に目が覚めた。「きっ……」杏介さんと叫びそうになって慌てて口を閉じる。目覚まし時計のアラームはまだ鳴っていない。まだほの暗く静かな部屋の中。杏介と、反対側にいる海斗の規則的な寝息だけがすーすーと聞こえてくる。イルカのぬいぐるみを抱いた紗良は、なぜか杏介に包まれるようにして寝ていたようで、しばし思考が止まる。(……なんで?)というのも、海斗を真ん中に三人で川の字になって寝たはずである。それなのにどういうわけか海斗は紗良の背中側におり(しかも寝相が悪すぎて布団からはみ出ている)、紗良は杏介にぴっとりとくっついている状態。紗良の腰には杏介の腕が巻きついている。要するに、イルカのぬいぐるみを抱いている紗良を杏介が抱いている、という形になるわけだが。(……抱きしめられてる)それを理解した瞬間、紗良の心臓はバックンバックンと騒ぎ出した。結婚して四ヶ月ほど経つというのに、隣に杏介が寝ているというだけでドキドキとしてしまう。間近に見る杏介の寝顔は、男性なのに綺麗で可愛いと感じる。長い睫毛や通った鼻筋、形の良い唇。そのどれもが愛おしく感じて胸が騒ぐ。
◇海斗のプール教室は、いつも弓香さんと一緒に観覧席から見守っている。 全面ガラス張りなのでほとんどすべてが見渡せ、海斗のみならず別のクラスを担当している杏介さんの姿もしっかりと確認できる。「うちも海ちゃんと一緒に同じクラスに上がれてよかったわ」「一緒だとやる気も上がるしいいよね」「でも先生が代わっちゃったのがちょっとなー。どうせなら小野先生がよかったわ」「弓香さん、小野先生推しだもんね」私は杏介さん推しだけど、なんて心の中で唱える。 チラリと視線を海斗から杏介さんに向ければ、逞しい体が目に入った。……急に思い出してしまう。あの日のことを。あの逞しい体に、抱かれたんだよね。 すごくかっこよくて、何度もキスをしてくれて、何度も紗良って名前を呼んでくれて、幸せで胸が張り裂けそうになった。初めてはすっごく痛かったけど、でもそれ以上に、杏介さんとひとつになれたことが嬉しくてたまらなかった。私、こんなにも杏介さんのことを好きで愛していたんだって改めて実感した。「おーい、紗良ちゃん? 紗良ちゃーん」「は、はいっ!」「どした? 推しでも見つけた?」「いや、なんでもないよっ」あまりにも杏介さんのことを見ていたからだろう、弓香さんが不思議そうに首をかしげる。前はプール教室の先生なんて全員同じ顔に見えていたし、推しだなんて考えたこともなかった。 だけど今はもう、全員違う顔に見える。当たり前だけど、杏介さんが一番かっこいい。もうちょっとしたら、弓香さんにもちゃんと報告しよう。 杏介さんと結婚しますって。 そしたら何て言うだろう? 驚くかな?その時のことを考えて、私はまたドキドキと心を揺らした。 【END】
「ぷはっ……」ようやく唇が離れたかと思えば、私を見下ろす杏介さんと目が合う。「紗良は本当に可愛い」「ど、どこがっ……さっきも可愛くない声が出ちゃったのに……」「うん? じゅうぶん可愛かったけど、もしかしてもっと可愛い声を聞かせてくれるの?」そう言われて一気に想像が膨らんだ私は、声にならない声を出して固まる。「き、き、き、杏介さんのエッチ!」「まだキスしかしてないのに、何か想像しちゃってる紗良の方がエッチだろ?」と杏介さんはクスクスと笑う。た、確かにそうかも――。って納得してる場合ではなかった。 どうしよう、どうしよう。「紗良、俺も緊張してるよ」「……うそ?」「ほんと」杏介さんは私の手を取り、自分の心臓へ持っていく。 トクントクンと刻む鼓動は確かに速い……気がする。 目をぱちくりさせると、杏介さんは柔らかく笑う。「ずっと紗良を抱きたいって思ってたんだから、夢だったらどうしようって思ってる。だからすごく緊張してる」「あ……わ、わたしも……夢みたいで……。それに、もっと可愛い下着付けてこればよかったとか、杏介さんをガッカリさせちゃったらどうしようとか、思っちゃって……」「はあー、紗良。ほんと、これ以上可愛いこと言うのやめて。俺の理性が吹き飛ぶ」「……吹き飛ぶ?」「そう、吹き飛ぶ」「んっ!」チュッと音を立てて食べられた唇。 優しくなぞられる体。どうしようなんて散々考えていたのは杞憂で、それでいて滑稽なことだったと、この後たっぷりと実感したのだった。